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口三味線がどうにもとまらない33: 高杉晋作 天保10年~慶応3年(1839-1867)幕末に,長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し,長州藩を倒幕に方向付けた。号は東行。安政4年,に­吉田松陰が主宰の松下村塾に入り,安政5年には藩命で江戸へ遊学,昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には,師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見­舞うが,松陰は処刑されてしまう。文久2年(1862年)5月には藩命で,幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航。長州藩では,高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽ら­が失脚。尊王攘夷派が台頭。桂小五郎や久坂玄瑞たちと共に尊攘運動に加わり,京都市において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開。この過程で,長州藩と朝廷や他藩との提携交渉­は,専ら桂や久坂が担当する。同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では,高杉を江戸から召還する­。文久3年,長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行う。米仏の報復に逢い惨敗。高杉は下関の防衛を任せられ,身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成する。京都では薩摩­藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され,文久4年高杉は脱藩して京都へ潜伏する。帰郷するが,脱藩の罪で野山獄に投獄。長州藩は禁門の­変で敗北して朝敵となり,来島又兵衛は戦死,久坂玄瑞は自害する。4カ国連合艦隊が下関を砲撃,砲台は占拠される。その後晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に高杉晋­作,24歳。「彦島の租借」を要求されるが,高杉は,これを毅然として拒絶する。「功山寺決起」は,元治元年に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺で起こしたクーデ­ター。禁門の変により,長州藩は朝敵となり第一次長州征伐が行われる。藩政の実権は椋梨藤太の俗論派が握る。彼は長州正義派に対して厳しく粛清を行い,周布政之助を切腹さ­せ,井上聞多を襲撃し重傷を負わせる。三条実美などを,太宰府に移送することで,志士の後ろ盾を完全に廃した。潜伏していた高杉晋作は,下関へ戻って奇兵隊に決起を促す。­高杉は,吉田松陰より「生きている限り,大きな仕事が出来ると思うなら,いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら,いつでも死ぬべし」と教えられていた。­この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させた。功山寺に集結したのは伊藤俊輔ら,わずか84人だけであった。奇兵隊ら諸隊も加わり,元治2年に,椋­梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。同月,海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが,反対される。4月には,下関開港を推し進めたことにより,攘夷・俗論­両派に命を狙われたため,愛妾・おうのとともに四国へ逃れる。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。第二次長州征伐では,海軍総督として「丙寅丸」に乗り込み,幕府艦隊を夜襲­。小倉方面の戦闘指揮では,幕軍の砲台・火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。将軍・徳川家茂の死去の通知後,小倉城に放火が起き,幕府敗北は決定的,幕府の権威は大きく失­墜する。翌慶応3年,大政奉還への大きな転換点となった。晋作自身は,肺結核のため,大政奉還を見ずしてこの世を去る(享年29)。「おもしろきこともなき世におもしろく­」,都々逸「三千世界の鴉を殺し,主と添寝がしてみたい」は,一般に晋作の作であると言われている。

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